ウグイス考 うぐいす色(鶯色)の歴史(4) TopNatureウグイス考

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 鶯餅の場合

うぐいす色が黄緑あるいはそれに近い色彩(ニセウグイス色)になった理由を「うぐいす餅の色をうぐいす色だと思った」という説があります。私的には最も有力な説と思うのですが、この説も肝心なこと、つまりいつ頃そのようなことが起こったかについても触れられていません。
先に、江戸の人達は本当のうぐいす色を知っていたことを述べました。はたしてその頃のうぐいす餅はどんな色をしていたでしょう、あるいはうぐいす餅があったのでしょうか。
戦中を耐えた老舗の和菓子屋さんのサイトにはいくつかの「鶯餅」があります。今となっては数少ない生き証人のようなそれら老舗の伝統的な和菓子の成り立ちを調べると鶯餅に緑色の要素は見られません。本家菊屋、大和甘林堂は江戸時代以前です。麻布 青野は創業は古いですが鶯もちを完成させたのが昭和10年頃と比較的新しくなります。それでも当時の「鶯餅」のデザインがが今様のニセうぐいす色とは無縁であったことが判ります。
鶯餅の色を鶯色としてしまったという説も、このような古い時代には緑色にはならなかったはずです。
下に老舗の宣伝写真をお借りしました。

 本家菊屋(注1)  麻布 青野(注2)  大和甘林堂(注3)  森八大名閣(注4)


老舗の鶯餅がウグイスの羽色をどこまで意識したものではわかりませんが、当時の人々は鶯色を知っていたのでもし鶯色を取り入れようとしても鮮やかな緑色にすべきという発想はできません。それは食べられる範囲の茶系統、つまり黄な粉でまとめた物で不自然はなかったでしょう。餡を牛皮で包み黄な粉をかけたものが江戸時代あるいはそれ以前の鶯餅のスタンダードであったと考えると現在残っている老舗のものと一致します。

江戸時代に鶯餅が一般的であった例として
文化十四年(1817)大酒・大食の会で
饅頭三十個、鶯餅八十個、松風煎餅三十枚、沢庵五本 六十五歳の町人 というの記録があります。
記録そのものはいかがわしいのですが、内容が庶民に理解できるものと言う意味で鶯餅がよく知られた菓子であるということが判ります。
また、享和元年(1801)の「料理早指南」という料理本には花見の重として次のような記述があります。
三の重 餅詰 うぐひす餅 きぬたまき 或は いまさかるい

そして、江戸時代の富裕層が得意げに飼っていたウグイスに対して庶民は「黄な粉鳥」(注5)という表現を発明します。ちょっと馬鹿にした言い方ですが、いつも黄な粉をかぶっている鶯餅のイメージの方からお高く留まっている飼い鳥ウグイスををひがみと揶揄にからませて言ってみたのでしょう。
「黄な粉鳥」これは当時の鶯餅が黄な粉をまぶした小餅であったことと、ウグイスと鶯餅がが共に庶民によく知られた存在であったことを物語るものでしょう。

 鶯餅も青くなる

江戸時代に黄な粉をかぶっていた鶯餅はその後緑色に変化します。
高浜虚子の長男 高浜年尾(1900〜1979)の作品に
手にはたくうぐひす餅のみどりの粉
というのがあります。恐らく昭和期の作品だと思います。(年代を調べる必要があります)
「みどりの粉」というのは青大豆のきな粉でしょう。この頃には高浜年尾の生活の場では鶯餅は緑色のきな粉をかぶっていたことになります。
青大豆は江戸時代にもありましたが信州や東北等の地域限定作物のようでした。文献上の青大豆(成熟しても黄色くならず、緑色をしている)は青豆(あおまめ)とも書かれますが、青豆と描いた場合には大豆の未熟実、つまり枝豆の意味にも使われます。例えば1782年刊行の「豆腐百珍」に登場する青豆豆腐の青豆は枝豆のことです。むしろ青豆は枝豆の意味に使われる方が多く、青大豆の文献を拾い出すことを難しくしています。「ずんだ」や「だだちゃ」は青豆(枝豆)の加工品ですが、伝統的な名前のために「うぐいす○○」と言われずに済んでいるのかもしれません。

「うぐいす色(鶯色)の歴史(3)」で述べたように、昭和初期のうぐいす餡の出現からまもなく和菓子の歴史は大戦のために一端途絶えます。太平洋戦争が終わってしばらくも空白期間がありました。伝統的なうぐいす餅のスタイルは老舗に残るのみで、新しく勃興した製菓業とそれを支える菓子職人には戦時から解き放たれた自由と斬新なアイデアが満ちていたでしょう。同時に敗戦からの復興、高度成長、環境破壊とひた走る経済をささえ、我が国を焼け野原から世界有数の経済大国にまで育てた世界一勤勉(その当時)と言われしゃにむに働いた大多数の勤労国民は本当のウグイスがどんな鳥か注意をはらう間もありませんでした。
日本経済が復興すると共に食生活の中にも嗜好要素が増え、嗜好飲料、菓子類の消費が著しくなります。うぐいす餡が緑色を増していき、うぐいす餅もまた春のイメージを演出するために若草色に染められました。装飾的効果を兼ねて青大豆のきな粉がうぐいす餅にかけられると、それをもって青大豆きな粉をうぐいす粉と呼ぶ人も出てきます。近年では原料豆が豌豆の場合でもうぐいす粉と呼ぶ人さえ出てきました。 緑のものに「うぐいす」をつけるとイメージがよくなるという発想で名付けるようです。
ウグイスの名は知っているけれどウグイスと言う鳥を見たこともない世代が、緑色のうぐいす餡に接し、薄緑のうぐいす餅を食べ、大脳がその色に単純に染まったと言うのが妥当なところでしょう。ウグイスもメジロも見たことのない人達が使ううぐいす色が二種の小鳥の見間違いから生じるはずもありません。
梅の花に来たメジロと間違えたというような説が生まれるのは実際に見間違えた人の発想です。多くの人々が梅見の場面や野外でメジロやウグイスと遭遇する機会を得るはそれより更に後、レジャーという言葉が日本語になった頃(1965年頃)です。  それ以前に食を通じて春のイメージカラー=うぐいす色がウグイスもメジロも知らない大衆文化の中に既に定着したのです。年代を絞り込むと1945〜1965年、つまり戦後から20年のあたりが最も疑わしくなります。例えば、JRの前身、旧国鉄の車両色:黄緑6号は1963年に山手線に採用されますが、この系の車両は鉄道マニアによってウグイス色車両として呼ばれ、その色名で表現する人口は今も増殖しています。
恐らく、ウグイスもメジロも見たことのない都会人によって広められた車両色:ウグイス色、この頃の東京の人を「昔の人」と言うのであれば、彼らがメジロの色をウグイスの色だと思ったと言う「昔の人間違い説」には無理があります。鉄道マニアにメジロとウグイスの混同説を持ち出す必要はありません。
「そんなの関係ねえ」どちらも知らない人達、それが大衆というのっぺらぼうの人格なのです。


注1 大和郡山 本家菊屋)
御城之口餅
(うぐいす餅)
http://www.kikuya.co.jp/
天正の頃(1580年ごろ)秀長の茶会に献上、同席の秀吉より鶯餅とするがよいと名を賜る。
注2 麻布 青野
鶯もち
http://www.azabu-aono.com/ayumi/index.html#kamei
安政3(1856年)に麻布 兵衛町で和菓子屋をはじめた。
1935年ごろ?笹舟にねむる藪の鶯をイメージして創られる。
注3 福井 三国町
大和甘林堂
うぐいす餅
http://www.392akinai.com/html/ymtk.html
享保4年(1719年)創業 三国神社の森に鳴く鶯にちなみ命名
注4 森八大名閣 http://e-miyage.mitelog.jp/happysweets/2006/01/
昭和8年 初代 森強 東京にて創業 (現在は福井市)
昭和に入ってからの創業(上記三老舗との比較のために紹介)
福井のお土産紹介サイトには「うぐいす粉(青大豆からできたきなこ)がたっぷりまぶしてあります」となっていますが、その色が当初からなのか,
いつごろ売り出されたものかは不明。見本写真からは緑色は感じられません。伝統より創作に重きを置く現代タイプメーカー?のようで洋菓子との融合もあります。
注5 黄な粉鳥 うぐいすの別名として春告鳥などと共に辞書に載っています。
上述の「黄な粉鳥」と呼ばれるようになった経緯は私の推論です。