ウグイス考 うぐいす色(鶯色)の歴史(3) TopNatureウグイス考

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 うぐいす豆の出現

鶯色を混乱させた一番の原因はもちろん、鶯色を知らないのに知ったかぶりをした人達がいたからですが、知ったかぶりをするにも根拠があるはずです。てっきりそうだと思い込んだか、小耳に挟んだか。
そのような情報源として挙げられるのが食品の色です。うぐいす餡説、うぐいす餅説があります。
うぐいす餡を調べるとうぐいす豆に、うぐいす豆を調べるとえんどう豆に行き着きます。さて、えんどう豆の歴史はというと、古くツタンカーメンの墓までさかのぼりますが、日本では平安時代に
「のらまめ」という名で登場します。その後、明治の後半からはヨーロッパへの輸出用が増え、特に北海道で栽培が盛んで昭和初期から同10年までは年平均3万トンの青豌豆をイギリスへ輸出したことが記録されています。
しかし昭和12年の日中戦争に対するイギリスの日貨排斥運動で、豌豆の輸出は途絶え、太平洋戦争とともに豌豆栽培は廃れてしまいました。

この豌豆などについて、国内における消費の一形態として「煮豆の商売」なる記事がありました。日本食品新聞社の記事から抜粋します。(注1)

煮豆の商売の始まり・・・・煮豆を商売として始まったのは1817年頃とおもわれます。この頃の江戸町民は、食べることをかなり楽しんでいたようです。江戸市中には茹で豆を行商したり、いんげん豆の煮豆を売る店が繁盛していました。

煮豆企業の始まり・・・・明治の中頃に現在の墨田区の森田なる人が、店員数名を置き、空豆の皮を剥いて、砂糖で調味したものを「開化隠元」 と名づけて、煮豆を東京市中に売り歩く行商人に卸をはじめたのが、煮豆の企業化の始まりです。
 「うぐいす豆」は、明治23年頃までは、南蛮豆、仏蘭西豆と呼んでいました。それを竹内なる人が、その煮方や味付をいろいろと考えて、三盆白(白砂糖をさらに精製した上等な砂糖)で煮て売り出すことに成功しました。煮上げた時、豆の色がちょうど鶯の羽の色のように仕上がっていたので、うぐいす豆という名を付けたのだそうです。

「うぐいす豆」はここで初登場するようです。少し誤解されそうな記事の書き方ですが、うぐいす豆というのはえんどう豆の甘煮にのことで元の原料豆のことではありません。しかし、現代ではこのえんどう豆についても青豌豆やその未熟実であるグリンピースを知ったかぶりで「うぐいす豆」とわざわざ呼ぶ人もいて、鶯色の混乱を助長しています。「うぐいす豆」は青豌豆の甘煮で加工品です。(注2)
最初に豌豆の甘煮に「うぐいす豆」と名づけた人はうぐいす色を知っていたようです。

青豌豆を砂糖で煮るとどんな色になるでしょうか。
ネット上の売り場から製品の一部を引用させていただきます。以下、色の違いを示した例ですが、この内5と6は着色料使用の製品ですので明治の当時ではこの色に炊き上げるごとはできなかったでしょう。4の製品は無着色なのに緑が残っているので技術的にこのような仕上げも可能かとも思われますが、通常は1〜3のような色に仕上がります。つまり、着色料を使用しなかった当時の調理では茶色っぽく仕上がったと思われます。(注3, 4 )


1 2 3
4 5 6

 うぐいす餡の登場

エンドウマメ(漢字で書くと「豌豆豆」となって変です、以後エンドウ「豌豆」とします)の生産が国内でさかんになったのは明治の後半から、それを受けて、うぐいす豆の登場が明治半ばからということは、うぐいす餡もその後に生まれたことになります。しかし、青豌豆の煮豆がうぐいす豆として登場しても、当時はそれが鮮やかな黄緑ではなかったのでうぐいす豆からうぐいす餡ができても「ニセうぐいす色」の直接の原因にはならなかったでしょう。
豌豆の生産は大正時代に拡大し続け昭和の初期にピークに達します。しかし昭和12年の日中戦争によって豌豆の最大輸出先であるイギリスにおいて日貨排斥運動がおこり豌豆の輸出はボイコットされてしまいます。
この間の豌豆生産最盛期、昭和4年に澤田屋からくろ玉と言ううぐいす餡を使った菓子が発売されヒットします。続いて、昭和5年には木村屋がうぐいすアンパンを発売します。(注5)
そのころのうぐいす餡がどの程度緑色を帯びていたかは定かでありませんが、うぐいす餡が世間に広まった時期だと思います。
製菓材料としてのウグイス餡は菓子職人の創造性に委ねられ発展することになります。
豌豆特有の緑色をもっと残したい、鮮やかにしたいと言うのは菓子職人にとってしごく当たり前の発想で、彼らはさまざまな加工法を試みたでしょう。うぐいす餡は鳥のウグイスを離れ、独り歩きすることは容易に想像付きます。着色もその一つです。その頃うぐいす豆をきれいな緑色に染める試みがあったかどうかは判りませんが、添加物関係の法が整備されていない時代は一部で無茶な試みがあったかもしれません。(注6)
現実的には昭和になってから1948年(昭和23年)・厚生省令第23号食品衛生法施行規則別表第2中に、食用タール色素22品目が「合成着色料」として指定され多種の着色料が添加物として世に出回るのですが、小麦粉、砂糖もままならぬ戦後まもなく和菓子も菓子職人も激減していたことでしょう。
要は、戦後しばらくは鶯色も、うぐいす豆もどうでもよい時代を通過することになります。

 食文化の中に生まれたイメージうぐいす

その後、経済が復興し食生活にゆとりや遊び心が戻ってきた頃には、鶯色の訪問着を着こなす女性も、ウグイスやメジロを飼って楽しむご隠居さんもいなくなって、アメリカナイズの物質文明の時代に突入し、自然や野鳥への関心は薄れた状態が続きました。半世紀にも渡る昭和の大半、日本の大衆文化の中の中にウグイスやメジロの居場所はなかったようです。近年、一般的になったバードウォッチングという言葉も使われだしたのは1980年より後でした。
さて、わが国の食生活にゆとりや遊び心が戻ってきたとき、人々はウグイスも鶯色も見失ってはいたものの、菓子メーカーや職人達はかつてのレシピを紐解き新しい時代の菓子作りに励んだでしょう。伝統を守る老舗もあったでしょうが時代は自由に向かっていました。うぐいす餡は餡を使う様々な和菓子やときには洋菓子の分野にも春のイメージを演出しました。ほんのり緑色を帯び、つやつやした茶色であったであろう昭和の初期に生まれたうぐいす餡は、春の想いをつぎ込まれ淡い黄緑から深い緑まで開発者のイメージの膨らみにいろどられたでしょう。 

続き→ うぐいす色(鶯色)の歴史(4)

注1 日本の煮豆 http://www.japanfoodnews.co.jp/nimame/nimame.htm
注2 農林水産省「消費者の部屋」Q&A 現在閉鎖http://www.maff.go.jp/soshiki/syokuhin/heya/qa/alt/altqa001005.htm
グリンピースとうぐいす豆はどう違うのか
「グリンピース」は、実えんどうの未熟な種子を野菜として利用するものです。
一方、完熟後、収穫、乾燥させた青えんどう豆の甘煮のことを「うぐいす豆」と呼びます。  (平成12年10月回答)
注3 青えんどう http://shop.yumetenpo.jp/goods/d/daimasu.net/g/B043/index.shtml
甘く煮ればうぐいす豆になります。煮豆で売られているうぐいす豆はきれいなうぐいす色をしていますが、あれは着色されたもので、実際に煮てみると黄色くなってしまいます
http://www.daimasu.net/SHOP/B0430.html
うぐいす豆の作り方
注4 銅鍋による調理 ただし、裏業があります。銅鍋を使って調理すると緑色が保たれる傾向があります。植物の葉緑素は中心にマグネシウムを持つ構造をして熱に不安定ですが、銅鍋と接触することによりごく一部の葉緑素は中心原子が銅に置き換わったいわゆる銅クロロフィルに変化し、緑色を保つ働きをします。餡をつくる業界などでは昔から銅鍋の使用はよくあることで、竹内なる人は銅鍋を使用したのかもしれません。といっても鮮やかな黄緑色にはならないので、明治時代の人がこのうぐいす豆の色をうぐいす色と思ったとしても、この煮豆が現代の(ニセ)うぐいす色の原因にはならなかったでしょう。
注5 澤田屋 http://www.kurodama.co.jp/
「くろ玉」は昭和4年に発売され、75年間愛される「澤田屋」が自信をもっておすすめする伝統の逸品です。
木村屋 http://www.kimuraya-sohonten.co.jp/goods_category/1010
『うぐいす』
香り豊かな青えんどう豆を使った「つぶ餡」と、伝統の酒種生地との深い味わいを是非お試し下さい。 昭和5年発売
注6 食品添加物の歴史 名古屋市暮らしの情報http://www.city.nagoya.jp/kenkofukushi/page/0000006409.html

三栄源エフ・エフ・アイ「食用色素の歴史」
http://archive.is/JpneP
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