桜(櫻)はシナミザクラを表す漢字か
【 怪談:漢和辞典  桜(櫻)はユスラウメを表す漢字であったは 誤り】 の 続編    →  前編
文中サクラを日本漢字で「桜」、中国を意識した場合は「櫻」と書きますが意味は同じです

「櫻」は中国でユスラウメを意味する漢字であった、には根拠がありませんでした。
一方で、「櫻」の中国での意をシナミザクラとしてしまうと、櫻はシナミザクラという一つの種のみを表す漢字ということになり、一般のさくら類は「櫻」で表せないと言うことになります。
本当にそうでしょうか。古代中国でシナミザクラを櫻或いは櫻桃と書いたのは事実ですが、そのことでその他の近縁のさくら類に対して櫻の字をあてることがなかったと判断してしまうことは早計です。

(今日、特に分類学的見地から生物の種名を書くときにはカタカナ表記、と言うことになっています。
この見地に立つと~ザクラという種はありますが単にサクラという種はありません。それで、ここではさくら類と書きましたが、以下の文章ではルールにとらわれずサクラを使います。)
  桜をサクラと訓ますは非    牧野富太郎  植物記 より  → リンク

全文はリンク先をどうぞ、 核心部分を抜粋すると
『昔から世間一般に桜をサクラとして用いている事は誰でもよく知っているが、実を言うと桜は我邦のサクラでは無いのである。桜桃は全く我が邦のサクラとは別種の者であったのである。しかれば桜は何んであるかと言うと支那の桜桃の事である。』
『桜桃は支那では果樹で、支那の桜桃を支那ミザクラ、欧洲産の者(Sweet Cherry と呼ばれる)を西洋ミザクラと呼んでいる』


というように書いていて、桜桃は全く我が国のサクラとは別種のも、としています。
ここで、奇妙な問題が生じます。
中国での桜桃は我が国のサクラとは全く別のもの、と言いながら支那ミザクラという名で呼ぶのはおかしくないですか? ○○ザクラと名付けた時点で、その語はサクラの一種を表していると解釈されてしまいます。
サクラとは縁のない別の植物なら、シナミザクラなどの紛らわしい名前は良くありません。
別種であってもサクラの一種なら、サクラでしょう。
○○マツ ○○ギク などそれぞれ多種から成る類の総称として松や菊という字を使いますし、品種を特定しない曖昧な表現で普段の会話や文章は成り立っています。つまり、アカマツでもクロマツでも松の一種なら、松と呼んでお咎めは受けません。樫、竹、菫、蝶、蝉、など種を特定のしない漢字はたくさんあります。「カラスが飛んでいる」と言う人の多くはハシブトガラスかハシボソガラスか気にも止めていません。
人は日常的にそのような単一の種にこだわらない大まかな会話をしているのですからサクラに関してのみ厳格な解釈が求められるのはおかしいのです。もともと漢字そのものが特定の種に対応して作られたわけではないからです。
シナミザクラもセイヨウミザクラもサクラの仲間なら「桜」で良いではないですか。

言葉と文字は日常の会話や伝達あるいは記録の手段として発達してきたものです。人間が植物分類学なぞをいじくり回す何千年か前に漢字ができ、さらにその何万年も前から言葉があり、言葉だけの時代に既に様々な物の名前が付けられていたはずです。分類学上厳密な一種類の植物に関する考察を、何万年か何千年も前の人々が名付けた木の名前に当てはめて、当時に遡ってその曖昧さを排除しようとするのは無理というか滑稽です。
中国で漢字ができたとき、すでに言葉があってその言葉に対して、<yīng >櫻、yīng・táo>櫻桃 と字が当てられました。(昔の発音は違っていたと思われますが)
字ができても、それは支配者層とその直下が用いる伝達と記録の手段ですから、一般の人々は言葉だけて漢字とは無縁だったでしょう。その言葉が表す物が曖昧さを含んでいれば、それにあてがった漢字の意味にもその曖昧さがつきまといます。漢字には定義を与えてできたものもあるようですが、本来、言葉に記録可能な形をもたらした物なのです。漢字ができる前からも、できた後も、文字を知らない人を含む多くの人々がほぼ同じ言葉を使っていたので、言葉の意味するところが歪められたり広がったりしたときに、その影響を受けて漢字そのものの意味も変化する、ということもあったでしょう。
ときには、分類学上明らかに異なる物でも、姿形が似ていたり、雰囲気が似ていたりする物が名前の上で同類的に扱われることは昔からありました。それは学術的に分類がはっきりした現在でも有効です。
君子蘭、蘭ではありません。スズラン、ヤブランも同様です。松葉ボタン 牡丹とは無縁です。シュウメイ菊 キンポウゲ科です。物の名前やその類別は当時の人々の感性によるもので、現代の学問で仕切れないことは沢山あります。それに学問的ツッコミを入れるのは無粋というものです。

牧野富太郎博士は中国にはシナミザクラしかないという後世日本の間違った知識の上に立ったのか、中国では、日常的に櫻と櫻桃とは同じ意味で用いられていることに鑑みて櫻桃=シナミザクラと主張したのかもしれません。そうだとすると博士は植物学上の不適切表現を指摘したことになり、学術的には理屈は通るのでしょうが、私たちは通常学術的に花見をしませんし、学術的にサクランボを賞味しません。立場が違うのですが、学術的な仕分けや分類が日常生活の場にはなじまないことも多々あります。
そして漢和辞典は漢字を読み書きする一般の人が使用する物で学術用語辞典ではないと言うことです。
                
中国内部においても櫻という字が単独で使われることより、その果実=櫻桃(サクランボ)の表現のために用いられることが多く、サクランボの木を表すときも櫻桃であったり櫻桃樹であったりしました。櫻桃だけで実の意味であったり木の意味であったりもするのです。日本でも同様のことがあります。柿食えばと言えば実の意味です。柿を植えると言えば木の意味です。
それでは櫻桃ではなく櫻そのものはどう意味づけされ、どのように使われたのでしょう。

     中国のサイト:樱花文化浅谈 → リンク  

の解説にあった中国古典の中の櫻を紹介します。
  ① 南宋時代、王僧達(423-458): 《詠櫻詩》
 初桜動時艷、擅藻爍輝芳、
 緗葉未開萼、紅葩已発光。

  訳詩:  咲き初むる桜艶やかに、輝き薫もほしいまま、
        浅黄の葉未だ開かぬに、紅花は既に光を放つ。
説明には
『この詩に歌われた桜は初に花が開きその後葉が出る紅色早咲き品種であり、赤い鐘形の花を付ける、わが国の特産の鐘花桜がそれに一致している。』  とあります。
この鐘花桜とは釣鐘型の花のサクラでPrunus campanulataのことです。
日本にも導入され、かんひざくら/ひかんざくら(寒緋桜/緋寒桜)と呼ばれています。
 種の説明: Prunus campanulata:原産地:中国南部. 1~3月ごろ花径2cm大の紅色の花を咲かせる。
         花は半開で下向きに咲く 春早く咲く桜で木全体が紅赤色になり華やか。

  ② 宋、何耕  《苦櫻賦》
余承乏成都郡丞, 官居舫齋之東, 有櫻樹焉:本大實小, 其熟猥多鮮紅可愛。其苦不可食,雖鳥雀亦棄之。
自分は成都郡の丞(役職名)、官居は舫斎の東にあり、そこに桜の木がある:本体は大きいが実が小さい、それは熟れると真っ赤になってかわいい。それは苦く食べられず、鳥でさえ見捨てる。

この場合、樹は大きいのに実が小さく、しかも食用にならないのでシナミザクラでないサクラであることは明らかです。

  ③ 唐 白居易(772~846)  酬韓侍郎、張博士雨後遊曲江見寄  
 小園新種紅桜樹,閑繞花行便当遊。
 何必更随鞍馬隊,沖泥蹋雨曲江頭


庭に新種の紅桜樹を植えたのです。新種とあるので従来種とは違う、と言う意味でしょう。当然シナミザクラではありません。

これらの例のように、古代中国では櫻桃(シナミザクラ)以外のサクラの記述がありそれらに「櫻」という漢字が使われていました。つまり、中国では古くから櫻はサクラ一般を意味する漢字だったのです。
シナミザクラが「櫻」という類に属するのは間違っていませんが「櫻」は中国ではシナミザクラを表す漢字であったと、わざわざ種を限定することは間違いです。そして中国には昔からいろんな櫻があり、それぞれに櫻という字を当てていると事例を挙げて言っているのに、日本人が勝手に中国での「櫻」の意味を限定してしまうのも不適切かつ無礼です。「櫻」はやはり「サクラ」でよかったのです。中国でも日本でも。

結 論

櫻」=ユスラウメ説もシナミザクラ説も不要です。
   辞書を作る出版社の皆さん  櫻=桜=サクラ(さくら)、
      極当たり前のの事実を取り戻して下さい。

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